昭和52年09月15日 朝の御理解



 御理解 第28節
 『病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。』

 ここで「元気な心で信心せよ」というのは普通の元気ではダメな元気です、特別の神様のおかげを受けての元気でなからなけりゃ出来んです、唯元気まきだしてというととは違います、眠たいそこを辛抱して起きると言う様な元気ではないです、元気な心で信心せよ例えば「病気災難が続く人が代々難儀な事が起こって来るそれは井戸替えするに八九分で止めれば水はまだいつまでも濁っているようなもんだ」と仰る。
 八九分というあと1分か2分かで清水になろうとする程しのおかげです、ですからここで元気を出すという元気はね普通の元気ではダメです、神様のおかげを頂かなければどうにも出来ない、神様のおかげを頂かなければどうにもならない元気です、それも強力な神様の働きを受けて、自分の心の中に元気なその心と1つにならなければ、ここは頂けない「井戸は清水になるまで」というおかげなんですから。
 しかも八九分というのですからですから八九分まで、ここのところは段々信心さしてもらようたら判る処です、判る処だけはそうどころじゃなかろう分かるんです、けれどもあと1分か2分かという処で失敗するんですね、でいつまでたってもまだ本当のめぐりのお取り祓いは頂けず水が濁っているようなものなんです。ここで言う元気な心というのは唯自分が普通でいう「さあここで元気を出してやらにゃ」と言った様な元気ではない、この元気はもう愈々いうならば、清水になるかならんかという瀬戸際の、ですからこれが誰でも出来たら皆んながお徳を受ける事になるのです。
 ここまで判っているのです、信心すれば大体の事が分かる、めぐりが深い自覚に立つ事が出来る。本当にこれが自分のめぐりじゃな、家のめぐりじゃなと思わせて頂く。自分も九分九厘の処まで一生懸命進めていってる、もう後いうならば十に手が届こうと言う時、昨日の御理解の中にありましたように八、九、十なんです、信心が段々進んでおかげを頂いて神様って有難い八のおかげを頂いていくとそこには九が必ず待っている、少しばかり信心の稽古が出来たから神様が集金に来て下さる様なものです。
 それがところがなかなか苦しい、苦しいから又八の方に逆戻り信心を落とし又、おかげは頂かれるけれども九から十にはいっていかなければ信心の徳は受けられない、そんなに難しい訳です。九から十にという処は十全の徳と申しましょうかね、そういうおかげの頂けれる処ですから難しい。この頃ある方が10日ばかり熱心に参ってくる方があります、もう本当に神様に助けたもらわにゃしょうがない、というどうもこれじゃでけない難儀な人間関係の問題なんです。
 昨夜遅う参ってきて、本当に苦し紛れに夜中に参って来たんでしょう、御初穂してございました。中に手紙が入れてあったそして本当に悲しい事が書いてある「もう私は兎に角これほどありがたいお話を頂いても、これほど先生の力強いお祈りを頂いても、もう私は助かり様の無い人間です」そして最後に「お許し下さいお許し下さい、お許し下さい」と涙の滲むような字が書いてある、もうハッとするような感じです。
 お話を頂いて分かっているです、こうある事が自分が一生の上に素晴らしいプラスになる事なんだ、ここは先生がいわれる通りにこうすればおかげになると言う事は分かっているんだけども、どうにも出来ない。そして結局まあ脇から見たらなんでもないごとあるけれども、本人にとっては苦しいこと、昨日竹中組の裏の方の霊園から今度のビルの設計の事やいろんな打ち合せにみえました。
 それで秋永先生方が四、五人五、六人で話しを聞きました、でも夕方になりましたから夕食をあげ、その久富先生も一緒にお神酒を頂いた、久富先生としてはお酒を、私はお酒を一本ずつつけるんです、そしたら一本呑み切らない人が多い方が久富先生が儲かる訳です全部そこに集まってくる訳ですから、だから上機嫌でにこにこです、そして言われることがね、こういう事を言われるんです。
 「私はこの頃はお酒が切れると字書きよったら手が振るう、それで一杯頂くと又シャンとなる、シャンとなるどころじゃなかもう条件には及ばんごたる、持てる力が出るという意味のことを言いなさる。それで私は申しました、「兎に角ねもうなんでも同しことであって好きなまではよかばってん、過ぎることになったら詰まらんばいと私が、もう好き過ぎりゃもう知恵もなくなる思案も枯れる、ですから酒飲みやシャンとするならば私は黙っとるばってん、呑めばね普通ではない力が出る。
 そげん言わにゃ人が飲ませてくれない、これはそうです。それは酒だけのことではありません、人間関係でもそうです、あんた方の嫁御は「あげんな事じゃおかげ頂かれんばい、あんた一つ厳しゅうやらんの」と例えば云います所がその嫁御さんにべた惚れしとるもんじゃけん、「いいえあれが居るけん助かっております」そんなこつ平気でいうです。心の底に届かなければ惟いかんと分かっておっても、惚れ過ぎるとそう言う事になる、そういことを言うです、しかし本当は分かってるんです。
 こうしてこうすりゃこうなると分かってるんです、「だからこうせよ」と本当の道を教えられても自分の方へ言い分けをしてそれがどうにも出来ないめぐりの性だと思うですね。「ここでこうすりゃこうなる」と分かっておりながらそれが出来ない、それでもやろうとして一生懸命勤めて八、九分まではやるのですけれどもあと一分か二分かという処で「分かっているんですけど出来ません、どうぞお許し下さいお許し下さいお許し下さい」とまたダラダラと元の八分まで戻ってしまう。
 「詫びれば許してやる」と云うてもです、そういう「詫びれば」はいかんです、本当に十のおかげを頂きたいと思うならば、だから私が今日皆さんに言っとりますようにね、ここで云われる処の「元気な心で信心せよ」というのは普通の元気では人間は誰しも同じこと、いうならめぐりが百の力、信心の力がいうならば百の力これならば、正と邪ですから必ず同じ力ならば正が勝つのがこれは天地の法則です、「正しい」と言う事はこんなに素晴らしいこと。
 どんなに邪悪な方の力が強かっても、けれどもねどんなに本当のことだからと言うてもです、邪悪の方が百十あって本当のことが百なら、これはやっぱり負けます、それに負けるです。だから苦しい時もうここが九分九厘と言った様な時には、言うならば苦しいに苦しいが九分九厘というとき苦に苦が重なるような時ですけれども、そういう時には愈々めぐりも、それこそ九九(きゅうきゅう)いよる時と悟らないといけんです。
 ですからここで負けたら又後へ逆戻りせんならんのですから、ここに勝たなきゃならんこれはね、どうも人間の力では出来ないごつあるです。この元気な心と言うのは、だから私今日はこの元気な心という、皆さん元気な心で信心しよるから、こうやって毎朝朝参りも出来ます、だからその程度なら大概の者がやろうと思えば出来るのです。けれどもこうして信心の稽古をさせて頂いていろんな事が分かしてもらう天地の大恩も分かりゃご恩徳も分かる、道理も分かる。
 そして今日の御理解なんかを頂きますと、そうどこじゃなかろう、八九分で止めたんじゃ何時まで経っても清水にはならんと言う事が分かる、分かるけれども出来んのがそこなんです、それこそ「酒のみの気持ちになって見やしゃんせ、」いかに飲むなといわれても、飲んじゃいけないことがわかっておってもそこには理屈をつけて、それを飲むと返って自分がおかげ頂くといったような事を言う様になるね、愈々めぐりにも呑まれようとしておる訳ですね、
 これは酒だけの事ではないです。一事が万事にお互いが信心さしてもろうて、めぐりの自覚に立たせてもらいます、自分の処のめぐりが分かって来る、そのめぐりがで出したらどうにもしようがないように、そのめぐりというものが、ムラムラと起ってくる。ですから日頃の信心に物を言わしてその信心の心を燃え立たせます、そしてめぐりと正しいものと正しく無いものと、おかげの頂けない物とおかげの頂けれる手立てとを、一生懸命心の中に戦わせます。
 それが五と五の力じゃったら絶対勝つのですけれども、いうならばめぐりの方が勝って負ける、負けるとそこに理屈を付ける、言い訳をする悲しい事です、もう人間の悲しい事はね、ここん処が悲しいと思うです、無力の自分だと言う事を悟ります。そこで神様におかげを頂いて、そこに万事お繰り合わせを頂かにゃいかん。例えば同じ力なら勝つんだけれどもめぐりの方が少し上だった、だから見事に負けたわけです。
 例えば今日の手紙なんかはもう一生懸命頑張ったけれどもこうする事がおかげと分かっておりながら出来ないと言うて、私最後の「お許し下さいお許し下さい、お許し下さい」と繰り返し書いている所はもうめぐりに負けた姿だと思うです。けれどもここん処に一心にお縋りさして頂いて神様の特別なお働きを頂いてそこからおかげを頂く。だから本当にお徳を受けるというのは、死ぬか生きるかという程しの処から、神様の特別のお働きを受けてそこから立ちあがり直して。
 いうならば九から十に出た人達だけがお徳を受けるのだと思いますね、殆どの人が九から八の方に逆戻り、そして又八から九へいっては、そこを信心の堂々回りと言う事です。井戸は清水になるまで病気災難は根の切れるまで、根が切れるまでの信心を頂きたい、私達の場合でも、何十年かの信心をさしてもらっているけれども、そこの八から九をいつも行ったり来りしておった事を自分で思います、そして愈々生か死かと言う様な処を何回も通らして頂いてようやく始めて、いうならば十に手が届いた感じが致します。
 それからは広がりに広がっていくだけ、いうならば人間の力ではない神様の力が自分の心のなかに入ってくる、ですからめぐりも寄せ付けんで済む程しのおかげにもなってくる。井戸は清水になるまで、それでも濁ってくるけれどもまた井戸ざらいをする時でもスッキリとした井戸ざらいが出来る。そして今日は「元気な心で信心せよ」というのは普通でいう元気では出来ない、人間はそんなにももろかったり弱かったりするもんだ。
 だからそこんところを、日頃信心のおかげを頂いて神様が特別に、いうならば特別のお働きを頂いて援兵を送って下さる、言うならば神様がそこにちょっとした、助太刀を出して下さる。もうよろよろ愈々「神様すいませんお許し下さい」となろうとする処を神様の救いの手が掛けられる、そして私はおかげを頂く。だからそういうギリギリの処を通るという事も信心の上では未だだから有り難い事だとも分ります。
 もうその時には無我夢中でしょうね、と言う様な事になって参りませんと、日々元気な心で朝参りをしておるという、それも元気な心がなからなければなかなか朝参りは朝参りでも続けるということは出来ません、朝早起きをすると言う事だけでも元気な心がないと出来ませんけれども、それよりかもっと難しい、いうならば「元気な心」というのは今日の処そんな風に聞いて頂いた。
 愈々めぐりが出てきた時にめぐりに打ち勝つほどの心をいうならば「元気な心」だと、けれどもその時にはもう自分の我力ずむ出す元気な心では到底及ばない、特別の神様の助太刀を頂かなければ、いうなら出来ない。これはまあ私自身が弱い私ですからいつも負けどうし負けてきてそしておかげを頂いた時の事を心の中に思わして頂いて今日は聞いて頂いたんです。
 だから人間だからそこを負けもめぐりに負けますけれどもそう云う時に神様特別な働きを頂きますと次に不思議な力が出てくる、これは神様のおかげです。そしていうならば井戸は清水になるまでのおかげの頂けれる、いうならばおかげ、だからそう云う時には下に落ちるか特別なおかげを頂くかという、いうならばその境目、いうならお徳を受けさしてもらえるチャンスと言うてもよい位です。
 お話を聞いて分かる、分かっとるけれどもそれがなかなか出来ないけれども、それでも縋らなければおられない、結局縋り貫かせて頂いておかげを頂く。だから落ちた時にまた失敗した、例えば久冨先生に対して申し訳ないけれども、もう今日一杯で止めとことこちらが、ちよっと誘惑されると、よかよか神様すいませんで飲んでしまう。そして唯すいませんなら、まだこえらしかばってん、飲むほうが良かち、いうごたる事を言い出す、これでは何時までたってもめぐりのお取り祓いはいただけんですね。
   どうぞ。